青髭

 海老名童話『青髭』

 昔々、ゴットアプフェルフルスという国の片田舎に、ヴェドラ領という土地がありました。ヴェドラ領は、その青く染まった髭で有名な「青髭」と呼ばれる男爵が治めていました。
 ヴェドラ領のある家では、アハトヴォルケン一家が住んでいました。アハトヴォルケン家の母親であるユカリは、毎日娘達のためにおいしいご飯を作り続けていました。長女のコヨは畑を耕してはおいしい野菜をたびたび持ち帰ってきました。次女のランカシーレは、ラテン語をドイツ語に翻訳するための辞書を作る事業に携わっていました。三女のレビアは、牛や羊、鶏の世話をしては栄養たっぷりの牛乳や卵をユカリに届けていました。一家の父親は若くして死んでしまったため貧しい生活を強いられていましたが、四人とも仲良く暮らしていました。
 ある日のこと、辞書作りに根を詰めすぎているのではないか、と家族に心配されたランカシーレは、気分転換のためにと畑のあぜ道を散歩することにしました。何の気なしに歩いているとはいえ、頬を撫ぜるそよ風や陽射しの中で輝く草花の中では、心が安らぐのを感じざるをえませんでした。
 ランカシーレが鼻歌交じりに歩を進めながらふと道端を見やると、木陰で一人の男が茶色い帽子を深くかぶって昼寝をしているのを見つけました。
「あら」
 ランカシーレはそっと足音を忍ばせて、男を起こすまいと通り過ぎようとしました。
 そのときです。一陣の突風が吹き、ランカシーレはスカートの裾がはためくのを感じました。
「やだっ……!」
 ランカシーレがスカートの裾を押さえていると、目の前を一個の茶色い帽子が転がっていくのを目にしました。慌てて振り返ると、先ほど木陰で昼寝をしていた男性の帽子が今まさに転がっていったのだということが分かりました。
「いけない!」
 ランカシーレは急いで駆け、地面を転がる帽子を追いました。帽子があまりにもすばしこく転がってゆくものですから、ランカシーレは思わず右足の靴で帽子を踏みつけました。
「あっ……!」
 ランカシーレは冷や汗が流れるのを感じつつ、帽子を拾い上げました。帽子に付着した泥を何度も何度も叩き落とそうとしましたが、泥はまったく落ちようとしませんでした。
「どうしましょう……」
 ランカシーレは困り果てて、とぼとぼと男のもとへと戻っていきました。
 男は木陰で昼寝をしているままでした。さきほどまでは気付きませんでしたが、男の髪は真っ白でした。まだ若い年齢の顔つきに不似合なその髪は、ランカシーレを一瞬ひるませました。
 ランカシーレは帽子を男にかぶせて逃げ去ろうかとも思いました。しかしランカシーレの矜持がそれを許しませんでした。事情がどうであれ、男の見てくれがどうであれ、ランカシーレが男の持ち物を汚してしまったことには変わりがないからです。
「ごめんくださいませ」
 ランカシーレは勇気を出して、男に声をかけました。男はゆっくりと瞼を開けて、目の前の金髪癖毛のランカシーレを認識しました。
「何ですか、お嬢さん?」
 男は微笑みながら尋ねました。ランカシーレは恐る恐る帽子を差し出しながら言いました。
「ごめんなさい。先ほどあなた様の帽子が風で飛ばされていたので、捕まえようとしたのですが……つい靴で踏んでしまったため、汚れてしまいました。お許しください」
 ランカシーレは男に帽子を渡すと、スカートをつまんで深く頭を下げた。男はランカシーレに一歩近づき、ランカシーレの左手を取って言いました。
「謝る必要などありませんよ、お嬢さん。もしお嬢さんが俺の帽子をほうっていれば、俺は帽子を失くしてしまうところでした。しかしお嬢さんのおかげで俺は帽子を失くさずに済んだのです。俺はお嬢さんにお礼を言わねばなりません。ありがとうございます、お嬢さん」
 そうして男はランカシーレに跪き、そっとランカシーレの左手の甲に顔を近づけました。
 ランカシーレははにかみながら男に言いました。
「以降はお気を付けあそばせ。いつでも私があなた様の前にいるわけではございませんもの」
「ではいつなら俺の前に来てくれるのですか?」
 男は立ち上がりながら、ランカシーレに意地悪な質問をしました。ランカシーレは呆れたような面持ちで、
「会ったばかりの殿方と再び会う約束など、私にはとうてい致せません。ごきげんよう」
と言ってくるりと踵を返しました。男の叫ぶ声が聞こえてきました。
「せめてお名前だけでも教えてくれませんか!? 俺はパクリコンといいます!」
 ランカシーレはどう返答をしようか迷いましたが、今日の出来事に感謝を示しつつ、素直に応えました。
「ランカシーレと申します! お昼寝をするときにはお気を付けくださいね、パクリコンさん!」
 そう叫ぶランカシーレの表情は、どこか上気したものでした。そしてあまりに上気していたからでしょうか、ランカシーレは近くの脇道を一台の馬車が通ることにすら気づいていませんでした。

 しばらく経ったある日、母親のユカリは怪訝そうな表情でランカシーレの部屋の扉を叩きました。
「いかがなさりました?」
 ランカシーレが扉を開けると、ユカリはランカシーレに一通の煌びやかな封筒を手渡して言いました。
「今朝これが私たちの家の郵便受けに入っていたのよ。差出人を見てちょうだい」
 ランカシーレが封筒を裏返すと、そこにはヴェドラ男爵という名が差出人として記されてありました。
 ランカシーレは困った表情でユカリに何かを尋ねようとしましたが、ユカリは「開けてみてちょうだい。それから判断しましょう」と言うだけでした。
 そしてランカシーレが恐る恐る封筒を開けて中の手紙を取り出してみたところ、やはり手紙にはランカシーレを妻として迎え入れたいという旨の文章がしたためられてありました。
 その日の夜、ユカリの前で姉のコヨと妹のレビアは、ランカシーレを囲んでばらばらな説得を試みていました。
 コヨが言うには、
「この家にいてもお前は裕福な暮らしなんてできやしない。私達はそれでも構わないが、お前だけでも豊かで不自由無い生活を送ってほしいんだ。お前には男爵夫人となるだけの器量も教養もある。どうか自分の可能性を信じて、新たな一歩を踏み出してほしい」
とのことでしたが、一方でレビアが言うには、
「お姉ちゃんを見ず知らずの男に渡すわけにはいかない。それに男爵にお姉ちゃんが嫁いだところで、お姉ちゃんが幸せになれるとは限らない。ましてや青髭と呼ばれ風貌を恐れられている男が、お姉ちゃんをまっとうに扱う保証なんてどこにもない。そもそも貴族の男爵とあたし達平民は根本的に考え方が違うのだから、お姉ちゃんはこの先たくさん苦しんだり悲しんだりするはずだ。だからこんなの断るべきだ」
とのことでした。
 コヨとレビアは「ランカシーレのような頭のいい子なら、貴族社会でもうまくやれるはずだ」「不条理な因習を押し付けるのが貴族なのだから、お姉ちゃんなら余計苦しむに決まってる」「ランカシーレだからこそ、良い家柄の夫人として認められる価値がある」「それはお姉ちゃんの不幸しか招かない」と侃々諤々の言い合いを始める始末でした。しかしやがてランカシーレは、
「おやめください」
と言って二人を止めました。
「お二人が私のことを案じてくださっていることは分かります。それゆえにどうしても譲れないという点もよく理解いたせます。……しかし現状をご覧なさい。この家が壊れかけたときに、どうやって修繕費を出すのです? 畑が野犬に荒らされたときに、柵を作り直して種をまた仕入れるだけのお金がどこにあるのです? 鶏が狐に食べられた場合に、どうすれば新しい鶏を買えるのです?」
 コヨもレビアも何も答えられませんでした。ランカシーレは続けました。
「私たちは、非常に貧しい生活を続けております。食べるものと住むところがあるのは、これまで運よく何も失わずに済んでいたからにすぎません。こんな綱渡りの生活をしていて、もし何かあったらどうするのです?」
 コヨもレビアも俯いたまま何も言いませんでした。ただユカリだけはランカシーレの顔を心配そうに見ていました。ランカシーレは続けました。
「この手紙には、こう書かれてあります。ランカシーレを妻として迎え入れることができれば、アハトヴォルケン家に対する金銭的援助を一切惜しまない……と。これこそまさに、私たちが長らく望んでいたものではございませんか?」
 ランカシーレの言葉に、コヨとレビアは叫びました。
「やめるんだ、ランカシーレ! お金なんかを理由に結婚相手を選ぶんじゃない!」
「そうだよ、お姉ちゃん! お姉ちゃんの代わりなんて、どこにもいないんだよ!?」
 コヨとレビアは思わず目を合わせました。さきほどまで全く意見が合わなかったはずなのに、いまや二人そろってランカシーレを止めようと説得しているからです。しかしランカシーレは静かにコヨに尋ねました。
「お姉様。先々月からお持ち帰りになる野菜の数が二割ほど減っているのはどうしてなのでしょうか?」
「それは……その、少し苗が弱っているものもあったし……今年の夏はあまり気温が上がらなかったから…………」
 コヨはしどろもどろに答えました。ランカシーレはレビアにも尋ねました。
「レビア。先月からあなたがお持ち帰りになる牛乳の量が少ないのは、どうしてなのでしょう?」
「いや、あの……それは単に牛がけっこう歳を取ってきたからにすぎなくって…………」
 レビアは尻切れとんぼな理由しか応えられませんでした。
 ランカシーレは大きく息を吸って、二人に言いました。
「社会的地位、貴族のしがらみ、名誉、抑圧、権力、束縛……それらなど所詮は些末な話です。今私たちに必要なものは、次の年を確実に生き延びるためのお金に他なりません。そのために私一人が誰のもとに嫁げばよいのであれば、なんと容易なことでしょうか」
 ランカシーレの言葉に、コヨもレビアもかける言葉が見つかりませんでした。するとユカリはゆっくりと口を開きました。
「ねえ、ランカシーレ。聞いた話でしかないのだけれど、男爵はこれまで何度も結婚を繰り返しているのよ。そんな相手だということを、あなたは知っているのでしょう?」
「存じ上げております。その程度、覚悟の上です」
 普段は自宅にいることの多いランカシーレでしたので、ユカリと話をする機会もたくさんあったのです。なのでこれまでに何度か、男爵が新たな女性を娶った、という話も為されてきたのでした。
 コヨとレビアがさらに愕然とした面持ちでランカシーレを見ている最中、ユカリは目を伏してランカシーレにそっと尋ねた。
「ランカシーレ。あなたは結婚というものを前にして、なお一つだけ言及していない点があるわ。それについて、尋ねてもいいのかしら?」
「どうぞ、何なりと」
 ランカシーレはユカリを見据えて言いました。するとユカリはこう尋ねました。
「ランカシーレ。あなたには想いを寄せている人がいるのではないの?」
 ランカシーレは頬が紅潮するのを感じました。それを見たコヨとレビアは思わず叫びました。
「ランカシーレ! どうしてそんな大事なことを黙っていたんだ!」
「そうだよ! お姉ちゃんは、お姉ちゃんが好きだと思う相手とこそ結ばれるべきだよ!」
 コヨとレビアの言葉に、ランカシーレは思わず立ち上がって語気荒く反駁しました。
「お黙りなさい! 愛が何です! 恋が何です! そんなもので良い苗は手に入るのですか!? そんなもので若い乳牛が手に入るですか!? 死んでしまったら何もかもが無意味なのです! それくらい理解なさい! それに……!」
 そしてランカシーレはついに、決して言うまいと思っていたことを言いました。
「家族が助かる機会を私のつまらない感情ごときで無碍にするということが、どれだけ私の矜持を傷つけることか! よくお考えなさい!」
 そう叫んだランカシーレは、気が付くとぼろぼろと涙をこぼしていることに気が付きました。そして泣きじゃくるランカシーレを、ユカリもコヨもレビアも優しく慰めるよりほかありませんでした。

 ランカシーレがついにヴェドラ男爵のもとへと嫁ぐ日のこと、アハトヴォルケン家の前に一台の四頭立ての馬車が到着しました。馬車の中から現れた青髭男爵は、紛う方無き真っ青で豊かな髭と青がかかった長い髪の向こうから、じっとアハトヴォルケン一家の四人を見据えていました。背は高く、顔には深い皺が刻まれ、貴族の衣から覗く手は灰色の手袋がはめられてありました。
「ごきげんよう、ランカシーレ」
 ヴェドラ男爵のしゃがれた声を聞き、精一杯着飾ったランカシーレはスカートの裾を持ってお辞儀をしました。
 ヴェドラ男爵はユカリの前まで歩み、
「必ずや、良き伴侶として尽くしましょう」
と言いました。ユカリはただ硬い表情のまま、
「お願いいたします」
と言って頭を下げた。
 コヨとレビアは険しい顔でヴェドラ男爵を睨み続けていましたが、ヴェドラ男爵が二人に会釈をした際にはお辞儀を返しました。
 ヴェドラ男爵はランカシーレを馬車の中へといざないました。ランカシーレは母と姉と妹に抱擁を与え、別れの言葉を簡潔に述べて馬車に乗りました。
 ヴェドラ男爵とランカシーレを乗せた馬車は、まるで何事も無かったかのようにアハトヴォルケン家の前から走り去っていきました。
 馬車の中でランカシーレは無言のまま、ヴェドラ男爵と相対峙していました。ヴェドラ男爵が何も言わない以上、私から話す必要もなかろう、とランカシーレは思っていたからです。
 馬車の窓から外を見ると、畑を耕す農夫たちがランカシーレを哀れな表情で見てくるのが分かりました。それもそのはずです。青い髭を蓄えた得体のしれない男爵に貰われる女など、ただの生け贄にしか思われないことでしょうから。
 10リーグほど馬車が走った頃でしょうか、丘の上に大きな宮殿が見えてきました。ヴェドラ男爵は何も言いませんでしたが、ランカシーレはあれこそが己の新居だと確信しました。
 哀れみをもって馬車を見やる農夫たちにも慣れてきたランカシーレでしたが、やがて妙な違和感を抱きました。なぜならときおり農夫たちは「これで何人目だというのだ……」「また若い女性が帰らぬものとなるのか……」と言っていたからです。
 ランカシーレはそのとき、数日前にユカリから言われたことを思い出しました。しかし青髭が多くの女性を娶ってきたという話こそ聞いたことはありましたが、その女性たちが帰らぬものとなっている点については全く知りもしませんでした。
 ランカシーレは思わずひきつった表情でヴェドラ男爵を睨みました。男爵はちらりとランカシーレを見やりましたが、再び馬車の窓の外へと視線を移しました。
 宮殿の門の中へと馬車は入っていきました。ランカシーレは己をどのような運命が待ち構えているかという恐怖に対して、ただただ身構えることしかできませんでした。
 馬車を降りたランカシーレは宮殿の立派な入口をくぐり、豪奢な屋内へと足を踏み入れました。そこは煌びやかな装飾が施された壁によって囲まれた、まさに貴族にのみ許された空間でした。
 すると背後からしゃがれた声が響きました。
「ランカシーレ。我が妻となる者として、相応しい衣を纏いなさい」
「はい……」
 男爵の指図で、四人の女性使用人がランカシーレを別室へと案内するために近づいてきました。ランカシーレが覚悟を決めようとしたそのとき、ふたたびしゃがれた声が響きました。
「相応しい衣を纏ったそなたには、相応しい贈り物を授けよう」
 ランカシーレは否応なく、己の肉体がこの男爵によって支配されてしまうことを直覚しました。
 ランカシーレは幼いころからの引っ込み思案な性格ゆえに、男性と仲良くお喋りをしたことなどほとんどありませんでした。しかし数の多寡など関係ありません。つい先日に胸の高鳴るような思いを抱きながら楽しく話ができたパクリコンという男性を想起するにつけて、身のよじれるような思いを抱きました。
 構わない、これで構わないのだ。そうランカシーレは自分に言い聞かせました。家族を助けるためなら、誰に身を与えても構わない。何をされようが構わない。なぜなら、どんなに身体を支配されようとも、心までは支配されえないのだから。
 何度も何度もランカシーレは自分にそう言い聞かせました。涙が頬を伝うのを感じながら、ランカシーレは使用人によって服を脱がされていきました。布と香水によって清められた後に、ランカシーレは水色の艶やかなドレスを身に纏わされました。桃色のガウンにも袖を通し、男爵夫人として相応しいであろうティアラをも髪に留められました。
 そうして鏡に映された己は、さぞかし男爵との初夜に相応しい食べ物であることだろう、とランカシーレは感じました。
 もう何もかもとお別れだ。ランカシーレは目を閉じて、一切に別れを告げました。母親にも、姉にも、妹にも、そしてパクリコンにも。これこそが私の生きる意味なのだ、と信じて、ランカシーレは着付け室の扉の前に立ちました。
 使用人が扉に手をかけました。さようなら――涙が頬を伝い、ランカシーレは目を閉じました。



「ランカシーレ、目を開けてくれ。俺が悪かった、謝るから許してくれ」
 ふいに届いたその声を聞き、ランカシーレは思わず目を開けました。するとそこには、あのとき道端で見かけて愉快に話を弾ませたパクリコンが、心配そうにランカシーレの顔を覗き込んでいるではありませんか。
「ええっ!? どうしてあなたがここに!?」
 ランカシーレは思わずたじろぎ、ドレスの裾を踏みそうになりました。よろけるランカシーレをパクリコンは抱き起しつつ、ランカシーレの目を見て言いました。
「すまない、ランカシーレ。じつは君の結婚相手は俺なんだ。無理を言って君を攫うようなことをしてしまって、本当に申し訳ないと思っている。許してくれ」
「な……何を仰るのですか!」
 ランカシーレはドレスの裾をたくし上げながら、パクリコンに詰問しました。
「そのようなはずがないでしょう!? 私はヴェドラ男爵に連れられて、ここまでやってまいりました! もしあなたが私の結婚相手であれば、そのように手紙に書かれるはずです! いい加減なことを仰らないで!」
「悪かったよ、ランカシーレ。でもこうするよりほかなかったんだ。何故なら俺がヴェドラ男爵なのだから」
 パクリコンの言葉に、ランカシーレは思考が停止するのを感じました。そしてややあって、ランカシーレはようやく言葉を紡ぐことができました。
「そ……そのようなはずがございません! あなたはパクリコンでしょう!? ヴェドラ男爵はさきほどの、青髭で、歳を取っていて、皺だらけの方です! あなたはあなたです! 嘘ばかり仰らないで!」
「うーん、それじゃあ……」
 パクリコンはしばらく宙を見て考えていたが、やがてランカシーレにこう告げた。
「必ずや、良き伴侶として尽くしましょう」
 そのしゃがれた声は、まさについ数時間前に聞いたばかりのものでした。
「ど、どうして……!? そのようなはずが……!」
「あるんだよ。だって俺が変装していたんだから」
 パクリコンは右腕をランカシーレの前に差し出して、茶色い布で手首を覆いました。するとあたかも手首が、深く皺の刻まれた皮膚のように見えるではありませんか。
 ランカシーレは恐る恐る尋ねました。
「ど……どうして変装などなさるのです……!? 普通にあなただと仰ってくだされば、喜んで私はお引き受けいたしましたのに……!」
「どうして、って言われると、そりゃあヴェドラ男爵イーコッカ家の家督が次々に病死しちゃったからなんだよな。結婚したての叔父が亡くなったり、家督を継ぐために結婚相手を探し出したばかりの従兄が急死したりで、大変だったんだ。そして残されたのが俺だから俺が家督を継いだのだけれど、こうも何度も男爵が病死したら貴族社会で相当見くびられるんだ。だから外出するときは、祖父の変装をすることにしてあるんだ」
 パクリコンの説明に、ランカシーレはただただ「そうだったのでしたか……」と言うほかありませんでした。しかし次のパクリコンの言葉に、ランカシーレは顔色を変えざるをえませんでした。
「ところでランカシーレ。さっき君は『喜んで私はお引き受けいたしましたのに』って言っていたけれど、それってつまり……その……俺との結婚を望んでたってこと……?」
「えっ!? あっ、いえ、あの! ち、違います!」
 ランカシーレは思わず否定しました。するとパクリコンは鈍器で殴られたかのような表情を呈し、
「なんだよ…………違うのかよ…………。俺はてっきり、あのとき君とはうまくやれると思ったのに…………なんだよ…………」
と露骨にしょげました。ランカシーレは慌てふためき、
「そ、そういう意味ではございません! あの、いきなり結婚だと言われれば確かに戸惑いはいたしますが、その、……こうして互いへの理解を深めていけるのであれば、やぶさかではないという意味でして……」
とごにょごにょと言い訳を続けました。
 パクリコンは顔を上げ、
「いいの、ランカシーレ?」
と尋ねました。
「いいもなにも、あなたがそれをお望みになったのでしょう?」
 ランカシーレは呆れたようにそう尋ね返しました。パクリコンはそう言うランカシーレの手を握り、告げました。
「ランカシーレ。どうか俺と一緒に暮らしてくれ。いずれ結婚するために、もっと君のことを知りたいんだ。もし俺のことが気に入らなければ、そう言ってくれればいい。君がどう振る舞おうと、必ず君の家への経済的支援はする。決して君を傷つけたりしない。貴族の厄介な決まりごとで、君を苦しめたりなんか絶対にしない。それらだけは誓う。だから……その…………」
 パクリコンに手を握られたままのランカシーレは、やがてパクリコンに一歩近づき、パクリコンの口唇に軽く接吻をしました。目を見開いて驚くパクリコンに対し、ランカシーレは言いました。
「まったく。あなたは貴族なのでしょう? 男爵なのでしょう? でしたら平民である私に、もっと遠慮なく命令なさい。私の意思の有無を問わずに、強引に婚姻関係を作ってしまえる立場なのでしょう?」
「それは……そうなんだけれど…………」
 ランカシーレに宥められながら、パクリコンは答えた。
「俺はヴェドラ男パクリコン・イーコッカで、君はランカシーレ・アハトヴォルケンだ。それ以外の何物でもない。だからこそ俺は俺自身の言葉と誠意で、君に頷いてもらいたいんだ。……それだけさ」
 パクリコンがそう言い終わるやいなや、ランカシーレは再びパクリコンの口唇に天使のような接吻を施しました。
「では、頑張って私をお口説くなさい。私はそう容易く殿方の手中に収まるような女ではございません。容赦はいたしませんよ?」
 ランカシーレはパクリコンの頬を撫ぜました。パクリコンはランカシーレの腰に手をまわして言いました。
「ああ、必ず君を口説きおとしてみせる。ランカシーレ、覚悟してくれ」
「覚悟など、とうにしております。あなたこそ、精進なさい」
 二人はふふっと微笑み合い、互いの手と手を握り合ったかと思うと、深く深く接吻を交わしました。

 二人は何日も何日も、一緒に過ごしました。ともに食事をし、ともに公務を行い、ともに税について話し合い、またあるときはともにお忍びで領地の見回りにも行きました。ただひとつ、二人は寝床だけは別にしていました。
 ある日のこと、パクリコンは王都に出かけねばならなくなりました。
「ラン。すまないが、十日ほどここを留守にせねばならなくなった。王都へは、貴族の伴侶か使用人しか連れて行けないことになっている。だから留守を頼む」
 玄関先でパクリコンはランカシーレにそう告げました。
「私を使用人だと割り切ってお連れにならないあたりが、本当にあなたらしくございますこと」
 ランカシーレは偽悪げに笑いましたた。パクリコンは軽く頷いて、続けました。
「それは俺も感じている。ただまあ……どちらかというと、君に留守を預けた方が安心ではあるんだ。王都とはいえ危険も多いし、ここにいれば君に危害が及ぶことなんて無い。使用人も皆、君のことを気に入っている。だから……君はここで、このヴェドラ領の領主として住んでいてほしい」
「あら」
 ランカシーレは思わず頬を染めて、パクリコンから目を逸らしました。パクリコンは慌てて付け加えました。
「ちがうちがう! 今のはプロポーズじゃなくて、それくらいに君には任せられるという意味で言ったんだよ!」
「……違いましたか…………」
 ランカシーレは不貞腐れたような表情で、ぷいっとそっぽを向いた。パクリコンは「今のはちゃんと押し通すべきところだったのかなあ」と悩みましたが、やがてランカシーレに一つの鍵束を差し出して言いました。
「ラン。留守の間、君にこの城のすべてを託す。そしてこの鍵束を使えば、この城のどんなところにも行ける。どの部屋に行っても構わない。何に触っても構わない。君の好きなようにしてくれ」
「……いいでしょう。あなたが治めるよりも立派に私が治めてみせますもの。あなたなど、帰ってこなくても平気です」
 ランカシーレは「ふん」と鼻息を鳴らし、そっぽを向いてわざとパクリコンにドレスの裾をぶつけました。しかしパクリコンはいつになく低い声で、ランカシーレに告げました。
「だけれど、南の宮の三階にある赤い部屋にだけは決して入るな。それだけは約束してくれ」
「……え、ええ」
 ランカシーレはパクリコンの表情を見やり、そのあまりに深刻な顔つきに驚きながらも恐る恐る鍵束を受け取りました。
「……分かりました。あなたがそう仰るのであれば、必ず言いつけはお守りいたします」
「ありがとう、ラン」
 パクリコンはそう言って、ランカシーレの髪を撫ぜました。
「それじゃあすまないが、もう行かなければならない。後のことは頼んだよ、ラン」
「……はい」
 パクリコンはランカシーレの両頬に接吻し、外套を羽織って玄関から出ていきました。
「……まったく、一度でも求婚なされば私は承諾いたしますのに……本当に女心の分かっていない方ですこと……」
 ランカシーレはパクリコンを見送りながら、そう独りごちました。
 パクリコンがいなくなって、急にランカシーレは手持無沙汰になりました。たしかに使用人たちはランカシーレの話し相手になってはくれますが、使用人たちにはそれぞれ与えられた仕事があります。いつまでもランカシーレの話し相手を付き合ってくれるわけではありません。
 やがてランカシーレはパクリコンのために、公務に必要な資料を揃えたり、ここ数十年に渡る租税の額を纏めたりしはじめました。しかしそれでも領主のパクリコンがいなければ何も片付かないので、そのうちランカシーレは悲しくなって公務の準備を行わなくなりました。
 王宮には立派な庭がありました。よく咲き誇る木々や植え込みはランカシーレを楽しませてくれました。しかし一緒に楽しんでくれる人が隣にいないので、しばらく経たぬうちにランカシーレは庭に出るのをやめてしまいました。
 ランカシーレはパクリコンに対するいら立ちを抑えられませんでした。今日までにプロポーズしていれば伴侶として王都に連れて行けただろうに、という思いをどうしても打ち消せなかったからです。
「ああもう!」
 ランカシーレはドレスを大胆にたくし上げながらハイヒールを響かせて闊歩し、自室に戻って棚の奥に仕舞いこんであった鍵束を取り出しました。
「私を独り残していくということがどれほど罪深い事かを、あの人に思い知らしめねばなりません!」
 ランカシーレは鍵束をガウンの袖に入れて、宮殿の探索に向かいました。
 ランカシーレが普段暮らしているのは北の宮でしたので、ランカシーレは南の宮へは入ったことがありませんでした。ランカシーレが鍵束の中の鍵の一つを使うと、南の宮の入り口の扉は簡単に開きました。
「パクリコンなど、私にこの鍵を預けたことを後悔なさるのがよいでしょう!」
 ランカシーレは一階の最初の部屋を開錠し、乱雑に扉を開け放ちました。するとなんと、そこは金箔が貼り巡らされた黄金の間だったのです。ランカシーレが一歩足を踏み入れると、傷一つ無い黄金の床に己の姿が綺麗に映っていました。
「うそ……」
 ため息を吐きながらランカシーレがドレスの裾を持ち上げてターンをすると、床に映されたランカシーレも華麗にターンをしました。ただしドレスをたくし上げていたため、床にはランカシーレの純白の下着がまざまざと映し出されていました。
 ランカシーレは慌ててドレスの裾を正し、そっと黄金の間から出ました。
「少し私には早かったようです……」
 そう言ってランカシーレは黄金の間の扉を閉めました。
 ランカシーレが隣の部屋の扉を開けてみますと、そこは部屋の中から風が吹き出る風の間でした。ランカシーレが風の間に入るやいなや、床のわずかな穴から噴き出ていた空気によってランカシーレのドレスの裾が大きくはためきました。
「やっ、やだっ! んもう!」
 ランカシーレはドレスを押さえながら、慌てて風の間を出ました。
 その隣の真綿の間では、ハイヒールで立つことが非常に困難なクッションが床を形作っていました。ランカシーレは何度もよろめいては転んでしまいましたので、終いにはランカシーレはハイヒールを脱いでドレスを大胆にたくし上げて風の間を出るよりほかありませんでした。
 二階にはさらに奇妙な部屋がありました。
 部屋の中に細い鉄柱が縦横無尽に張り巡らされていた鉄の間では、ランカシーレはドレスをたくし上げて下着をさらけ出さないと、鉄柱を乗り越えられませんでした。
 部屋の床に伸縮性の薄いゴムが張られていた軟の間では、ランカシーレはゴムの振動を利用して軽々と飛び跳ねることができました。しかし飛び跳ねるたびにドレスが乱れて生脚がさらけ出されるので、やがてランカシーレは荒い息を吐きながら軟の間を出ました。
 一番奥の杭の間では、床一面に小さな杭が打ちつけられてありました。杭にドレスの裾が引っかかるので、ランカシーレは床の上に設置された平均台に登り、ドレスとガウンをたくし上げながら慎重に進んでいきました。しかしハイヒールの覚束ない足取りで平均台の上を歩くことは非常に困難でしたので、やがてランカシーレは引き返して杭の間から出てしまいました。
 ついにランカシーレは三階にたどり着きました。そこには部屋が一つしかなく、扉は赤い色で塗りつぶされていました。
「なにが『決して入るな』ですか。私にばかり言いつけを押し付けてばかりで」
 ランカシーレはそう言って、最後の鍵を鍵穴に差し込みました。
 鍵穴に鍵が差し込まれたまま、ランカシーレはしばらくの間なにもしませんでした。鍵をひねれば扉が開く、というのに、ランカシーレは鍵をまわそうとしませんでした。
「……どうして私はこのようなことを思うようになってしまったのでしょうか」
 ランカシーレは鍵穴から鍵を引き抜き、鍵をしげしげと見つめました。
「家族のためにどうなってもいい、という覚悟を決めたはずです。なのに私はちょっとちやほやされたくらいで、どうして言いつけを守ろうとしなくなってしまったのでしょう」
 ランカシーレは鍵束をガウンの袖に仕舞いました。
「……馬鹿馬鹿しい話でございます。これまで私の身体をいたずらに触れることもなく、ただただ親切に養ってくださった方の言いつけを、どうして守れないことがありましょうか。それすらできないようであれば、私など所詮その程度だということです。なにが男爵夫人ですか。なにが覚悟ですか。私とは……かくも堕落した矮小な存在だったのでしょうか……」
 ランカシーレはうなだれました。
「もういいです……。パクリコンには、婚姻をとりやめるよう申し出ましょう……。私のような愚かな女など、生まれ持った家族の庇護のもとで暮らす程度で満足しておればよいのです……。パクリコンにはこれまで差し出がましいことをたくさん申し上げてしまいました……。全てを詫びて、私はここから消えましょう……」
 ランカシーレはドレスの裾をたくし上げ、赤い扉の前から立ち去ろうとしました。
 そのときランカシーレは、視界がぐにゃりと歪むのを感じました。
「何です……っ!?」
 ランカシーレは必死に前を見ようとしました。しかし見ようとすればするほど、床も壁も何もかもがのたうって見えるのでした。
「そんな……一体何が……っ!?」
 ランカシーレは覚束ない足取りで一歩一歩進んでいきました。しかし揺れ動いて見える床には勝てず、とうとうランカシーレはバランスを崩して伏してしまいました。
「いやぁ……っ!」
 ドレスを踏んでしまい身動きができないランカシーレは、次第に身体が言うことを効かなくなってゆくのを感じました。指に力が入らず、脚も満足に動かせません。地を這おうにも、体が重たすぎて少しも前に進めません。
「パクリコン……たす……け…………て………………」
 ランカシーレは薄れゆく意識の中でそう呟き、ぱたりと気を失ってしまいました。

 ランカシーレは一糸まとわぬ姿で、ピンク色のもやの中をただよっていました。そこではまるで宙に浮いているかのように、体中が弛緩しきっていました。しかしそれ以上に、綿に包まれているかのような感覚が心地好さを誘っていました。ランカシーレは何も考えず、ただそのもやの流れに身を任せて、身体で快感を楽しんでいました。
 あらゆる皮膚がもやによって優しく撫ぜられました。綿がランカシーレの肌をくすぐり、ランカシーレの首筋や乳房、太腿、足の裏に至るまで、ゆるやかに快感の波が伝播していくのが感じられました。
 もうこれでいい、とランカシーレは心のどこかで思いました。こうして身を委ねているだけで、何よりも心地好く過ごせるのだ。だったらそれで充分じゃないか。
 そう考えて、再びランカシーレは一切の思考を放棄しました。
 快感のさざなみがランカシーレを包み、ランカシーレは幾度も身体が痙攣するのを感じました。それが身体の奥底から湧きいずる欲求を満たしてくれることに気付き、ランカシーレはさらに痙攣を求めました。
 ランカシーレの股間から少しずつ蜜が溢れ、虚ろな目と半開きの口からは自制を失った液がこぼれました。
 ランカシーレは身体をのけぞらせて、ひくりひくりと痙攣の快感を味わっていました。
 もっと、もっと、とランカシーレは願いました。
 もっと、
 もっと、
 もっと、
 ……。



 頬に強烈な衝撃が走り、熱い痛みが顎関節に伝わりました。
 ランカシーレがはっと目を覚ますと、ヴェドラ男爵邸でのランカシーレの自室に置かれていたベッドの天蓋が目に映りました。そしてすぐさま、何度も何度も会いたいと願ったパクリコンが顔を覗かせました。
「ラン! 俺だ! 分かるか!? 分かったら一秒だけ目を瞑ってくれ!」
 ランカシーレはうすぼんやりとした意識の中で、ゆっくりと目を閉じ、そしてゆっくりと目を開けました。
 するとランカシーレは勢いよくパクリコンによって抱きしめられ、ランカシーレは身体中にパクリコンの皮膚の温かみを感じることができました。
「パクリコン……?」
「ラン! 喋ることができるか!? もう大丈夫だから、安心してくれ!」
 ランカシーレはパクリコンの声を聞いて、思わず微笑みました。そしてパクリコンにそっと告げました。
「パクリコン……。ごめんなさい……。私はあなたの妻にはなれません……。お許しください……」
「何を言うんだ、ラン」
 パクリコンに慰められながらも、ランカシーレは続けました。
「私は……あなたの言いつけを守れず……あの赤い扉を開けようといたしました…………。鍵を鍵穴に入れて……まわそうとしました……。妻として失格でございます…………」
「でも回さなかったじゃないか! だからこうして助かっているんじゃないか!」
 パクリコンの言葉に、ランカシーレは細目のままくすくすと笑いました。
「おかしなことを仰る方ですね……。それではまるで……あの扉を開けていたら私は死んでいたかのような言い回しですこと……」
「死にはしない。だけれど、死んだも同然になってしまうんだ。俺はそのことを知らなかった。なのに君にあの部屋の鍵を渡してしまったんだ。許してくれ、ラン」
 パクリコンはランカシーレの胸に顔をうずめ、ランカシーレの手を握って懇願しました。ランカシーレは優しげな表情でパクリコンに問いました。
「ご存じなかったとはどういう意味です……? あの部屋に何があるのかを、どうしてあなたがご存じなかったのです……?」
「誰も開けたことがなかったからだ。……いや、誰も開けたことがないと信じられてきたからなんだ」
 パクリコンはランカシーレの目を見つめて、必死の声で告げました。
「ことの始まりは、初代ヴェドラ男爵が妻に性的快感を与えるためにあの部屋を作ったことだ。最初はある植物から取れるエキスを調合して噴霧していただけだったのだけれど、やがてあの部屋で植物を育て始めたんだ。そうしたらその植物の幻覚作用がさらに増してしまい、ついに誰もあの部屋に入れなくなってしまっていたんだ。だから代々『あの部屋には入るな』と言われてきたんだ」
 パクリコンはランカシーレの手を握りしめながら続けました。
「だけれどそれでも部屋に入っていた人はいたんだ。先代の従兄夫婦や、先々代の叔父夫婦がそうだったんだ。彼等はあの部屋から漂う幻覚作用と性的快感のとりこになってしまったため、ついに部屋の扉を開けてしまっていたんだ。だから『病死』してしまったんだ」
「病死……?」
 ランカシーレは怪訝な表情を浮かべながら問いました。
「ですが先ほどあなたは『死にはしない』と仰ったではございませんか……? いったいどういうことです……?」
 ランカシーレのおぼろげな声に、パクリコンは答えました。
「そう。死にはしない。だけれどずっと幻覚を見続けてしまうんだ。他の誰がどれだけ叫ぼうとも、声は全く届かない。そして厄介なことに、その幻覚は必ずしも性的快感だけをもたらすものじゃなかったんだ。やがて幻覚は苦痛に変わり、自らを保てなくなり、発狂し、ついには己を徹底的に傷つけて死んでしまうんだ。従兄夫婦も、叔父夫婦もそうだった。遺体に刻まれた傷跡は、病で苦しんだ痕じゃなかったんだ。幻覚による苦痛によって、己自身が傷つけた痕だったんだ」
「そんな……」
 ランカシーレは悔しい思いを露わにしながら呟きました。
「では先ほどの心地好い場所は……幻覚だったのですね……」
「そういうことになる」
 パクリコンはランカシーレの手を握りしめたまま、頷きました。
 ランカシーレは涙が頬を伝うのを感じました。
「パクリコン……。私も彼等と同じ道を辿るところでございました……。あなたの言いつけを守らなかったばっかりに、命を落とすところでございました……。こんな女など捨てておしまいなさい……。あなたの妻に相応しくありませんもの……」
 パクリコンはランカシーレの口唇を接吻によって塞ぎました。そして舌と舌が絡まるのを感じながら、唾液を混ぜあいました。
「ラン。君はあの赤い部屋を開けなかったんだ。それどころか、あの部屋の前から逃げようとしていた。こんな勇敢で思慮深い女性を、どうして捨てられるんだ。それに俺は、君のおかげであの部屋の正体を突き止めることができた。だから南の宮ごと焼き払って全てを灰にし、二度と同じ惨劇が起こらないようにしてしまおうと思う」
「あら……」
 ランカシーレは偽悪的な表情を浮かべて問いました。
「南の宮には、個性的な部屋がたくさんございましたよ? 金箔が貼られた部屋や、床から風の吹き出る部屋や、床がゴムになっている部屋などがたくさん……」
「ああ。あれらは全部、初代ヴェドラ男爵が作り上げた、いやらしい部屋だ」
 パクリコンは忌々しげに吐き捨てました。
「女性をあれらの部屋に連れ込んで、散々性的に味わうつもりだったらしい。初代ヴェドラ男爵の手記を見つけたら、そう書かれてあった。つまり南の宮は、性を愉しむためだけの建物だったんだ」
「まあ……」
 ランカシーレはパクリコンの袖に縋りながら、言いました。
「どうかあれらを焼き払ってくださいませ……。私は……あなたがあれらの部屋で私を性の玩具にする様を思い浮かべたくありませんもの……」
「ああ、約束する。君が休んでいる間に、さっさと忌まわしい歴史を終わらせてしまおうと思う」
 パクリコンはランカシーレの髪を撫ぜました。ランカシーレはふっと微笑んで、パクリコンに問いました。
「あなたはずっと私を看病してくださっていたのですか……?」
「当たり前だ。それが俺の役目なのだから」
 パクリコンはランカシーレの頬を撫ぜながら答えました。するとランカシーレは笑みを浮かべたかと思うと、唐突に、
「ばーか」
と口にしました。
「な……なにが馬鹿だよ?」
「あなたのことですよ、まったく……」
 戸惑いながら尋ねるパクリコンに、ランカシーレは諭すように言いました。
「ここまでなさってくださったのに、どうしてあなたは私を己のものにしようとお思いにならないのです? それとも、それほどまでに私は魅力の無い女だとお思いなのでしょうか?」
「違うよ、ラン。俺はただ、君の弱みに付け込んだり恩を着せたりして求婚を成立させたいわけじゃないってだけだ」
 パクリコンが目を逸らせながら答えると、ランカシーレは再び「ばーか」と言いました。
「なんだよ、ラン! いい加減にしないと怒るぞ!?」
「では怒ればいかがです?」
 ランカシーレは慈愛に満ちた表情で言いました。
「あなたはあまつさえ私を養い、私の家族を援助し、私に素晴らしい生活を与えてくださり、ついには私の命を助けてくださりました。弱み? 恩着せ? 上等でございましょうに。逆に、ここまで尽くしていただいたのに身体一つ求められないとなると、あなたが私のことを飽きたのではないかと勘繰ってしまうくらいですよ。まったく……っ!?」
 唐突にパクリコンに接吻されたため、ランカシーレはもがきましたた。しかしパクリコンに押さえつけられる中で、ランカシーレはやがてパクリコンに身を委ねることにしました。
 パクリコンとの接吻は長く長く続きました。ようやくパクリコンが口唇を離したかと思うと、パクリコンはランカシーレの頬に手をあてて問いました。
「ラン。君の全てが欲しい。結婚してくれ」
 ランカシーレは品定めをするような目でパクリコンを見やりましたが、やがて素直に、
「かしこまりました、あなた」
と答えました。
 パクリコンとランカシーレは、さらに長い長い接吻を交わしました。

 パクリコンとランカシーレの挙式が行われることになったため、二人はランカシーレの家族を宮殿に呼び寄せました。結婚式への参列のため、という目的もありましたが、もしランカシーレの家族が許せば彼女たちを宮殿に住まわせよう、とも考えていたからです。
 パクリコンとランカシーレはわくわくしながら、アハトヴォルケン一家の到着を待っていました。そしてようやく彼女等を乗せた馬車が到着したので、ランカシーレは皆を歓迎しようとしました。しかし残念なことに、馬車から下りたコヨは真っ先にパクリコンを見て驚きました。
「あっ! いつぞやのトウモロコシ泥棒がなんでここにいるんだよ!?」
「ちがう! 俺はトウモロコシなんて盗んでいない! 生えていたのを食べただけだ!」
「あれは私等が育てていたトウモロコシだ! 許さないぞ貴様!」
 コヨがパクリコンに掴みかかろうとしたので、ランカシーレは止めざるをえませんでした。しかしほどなくして、レビアもまた驚きの声を上げました。
「あっ! 勝手にあたしの牛の乳搾りやってた人だ! あれから乳の出が悪くなったんだけど、どう責任取ってくれるのよ!?」
「ちがう! 俺は単に野生の牛と戯れていただけだ!」
「あれはあたし等が飼っていた牛なの! 許さないわよ!?」
 レビアもまたパクリコンに掴みかかろうとしたので、結果的にパクリコンはコヨとレビアに頬をつねられる形になりました。
「いたいいたい、悪かった、許してくれ。頼む、ラン、なんとか言ってくれ」
「はぁ……」
 ランカシーレはコヨとレビアの肩をつつき、そっと告げました。
「あのー、この方は私の主人となるべき方ですので、どうかお手柔らかにお願いいたします」
「えっ!?」
 コヨとレビアの声が重なった。
「嘘だろ、ランカシーレ!? だってこいつ、明らかにあのときのオッサンとは違うじゃんかよ!?」
「あれは主人の変装だそうです。なんでも、歴代男爵の連続急死を世間にバレないようにするため、とのことだそうです」
 コヨは「なんじゃそりゃー」という表情を浮かべました。レビアも、
「でも今まで何人も奥さんがいたんじゃないの? あの人たちはどうしたの?」
と尋ねましたが、パクリコンが、
「いや、あれは先代以前の妻でしかない。俺はランが初婚相手だ」
と言ったものですから「なんぞそれー」という表情を浮かべました。
 最後にユカリが馬車から下りてきました。そしてパクリコンの顔を見るやいなや、
「あら。裏林のダチュラ畑で怪しいことをしていた人が、どうしてここに?」
と尋ねました。パクリコンは、
「いや、俺はダチュラ畑を根絶やしにするために、あの辺を調査していたのであって、決して怪しいことをしていたわけではないんですが……」
と答えました。しかし次のユカリの言葉に、ランカシーレは驚きました。
「ダチュラ畑に近づくと人は変になっちゃうから、てっきりあなたも変な人なのだと思っていたわ」
「えっ!?」
 ランカシーレはパクリコンの袖を掴み、尋ねました。
「あなた!? もしかして、あの部屋にあった植物って……」
「ああ、ダチュラというものだよ。アサガオみたいな見た目なんだけれど、危ないから領土内にあるダチュラを全部焼き払おうと思っている」
 ランカシーレはそれを聞いてみるみる顔を硬直させました。
 コヨがランカシーレの頬を突いて「おい、どうした。そんな綺麗なドレスを着ているわりには、案外間抜けな顔をするんだな」と言ったところ、ランカシーレは困ったように溜息をつき、
「これはもう、本当にダチュラを根絶やしにするより他はございませんね……」
とひとりごちました。
 一方でユカリもユカリで、
「ねえ。ところでこの人はどなたなの?」
と言うものなので、レビアが、
「この人がお姉ちゃんの旦那様になる人らしいよ」
と答えたところ、ユカリはランカシーレの傍に歩みより、
「ねえ。ひょっとしたら騙されているのかもしれないわよ? だってヴェドラ男爵って、もっと年老いていて青い髭を生やしている人でしょ? どう見ても別人じゃないの」
と尋ねました。
 ランカシーレはもはや説明する手だてが無いと諦め、
「では宮殿の中で主人がご説明くださりましょうから、とりあえずは皆様、屋内へお入りくださいませ」
と言って皆を宮殿へと案内しました。玄関扉を開けるために持っていたパクリコンをレビアはしげしげと眺めて、
「どちらかというと、あなたよりもお姉ちゃんのほうがよっぽど男爵として相応しいと思うよ」
と言って中に入りました。内心しょげていたパクリコンを慰めるのは、もちろんランカシーレの役目でした。
 宮殿の応接間にて、パクリコンはアハトヴォルケン一家に変装の一部始終を披露しました。声まで再現されたとなれば、ユカリもコヨもレビアも、パクリコンがヴェドラ男爵であると信じるよりほかありませんでした。
 パクリコンとランカシーレは、結婚式の日程を説明しました。パクリコンの正体を知られるとまずいので、結婚式には互いの家族とその使用人だけを呼ぶことにしました。
 最後にパクリコンはアハトヴォルケン一家に、宮殿にて住むことを提案しました。植物の収穫が終わり、動物たちがおとなしくなってから全てを移動させる、という条件のもとで提案は承諾されました。
 全てが綺麗にまとまったところで、ふとユカリがパクリコンに質問しました。
「ねえ、パクリコンさん。例のダチュラ畑のことなのだけれど、さすがに馬車を使ってダチュラを持ちだしているのは、やめたほうがいいんじゃないかしら?」
「えっ? 俺はダチュラを持ちだしてなんかいませんよ?」
 パクリコンの答えに、ユカリは納得できませんでした。
「そんなはずはないわ。だってダチュラ畑までの脇道を馬車で通るのなんて、パクリコンさんくらいしかしないでしょう?」
「いえ、ありえません。だってあの脇道は、この宮殿まで通じてないんですから」
 その返答に、アハトヴォルケン一家の皆は言葉を失いました。パクリコンはややあって皆に告げました。
「分かった。どうやらあのダチュラ畑をダチュラを持ちだして、よからぬことを企んでいる人がいるようだ。至急、領土内を徹底的に調査して、ダチュラの持ち出しや所持の規制を強めていこう」
「そういたしましょう、あなた」
 頷くランカシーレの肩を、パクリコンはぎゅっと抱き寄せた。

 数日後、ヴェドラ男爵イーコッカ家とアハトヴォルケン一家の婚姻の儀が執り行われました。宮殿内に作られた教会に現れた花嫁は、見る者を魅了する銀色のドレスで身を包んでいました。そして誓いの言葉を述べた花婿が花嫁を抱き寄せてキスを交わすと、花嫁のドレスの裾がふわりと舞って教会にたくさんの光がきらめきました。
 多からぬ参列者たちからは、少なからぬ祝いの言葉が捧げられました。

 後にヴェドラ男爵パクリコン・イーコッカは、領土内におけるダチュラの所持に対する法令を制定しました。これによりダチュラの危険性が世間に知れ渡ったのみならず、ダチュラによって暗殺を企んでいた者たちを一網打尽にすることができました。
 しかしなにごとも抜け目はあるものです。こっそりとダチュラをヴェドラ領外に持ち出すことに成功した人たちは、ダチュラのエキスを抽出して薬剤にしました。そしてある時は性的快楽のために、そしてある時は殺人のために、ダチュラの薬剤を売り飛ばして大儲けしました。
 その薬剤の名前は、「アオヒゲ」と呼ばれたそうです。

(おしまい)

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Author:パクリコン
ピチロの世界の住人。

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