不思議の国の声、奮闘記の3

 凡人であること。

 事の発端は、世界樹ポエムが「ちえ」という女性にツイッター上で告白をしたところから始まる。案の定その告白は「理解しかねます」と否定されたのだが、その後も世界樹ポエムは「ちえ」に一方的にリプライを送り続けた。それに耐えかねた「ちえ」は世界樹ポエムに、迷惑だから私に関わるな、との旨を伝えた。そしてその直後の世界樹ポエムのリプライが、

よう、凡人

だった。

 凡人。
 その響きが罵倒の言葉で用いられるとは思いもしなかった。むろん「オレはスゴいんだ!」と言っている人に対し、上記のセリフをぶつけることは有効だ。それは対話のカウンターとしても機能するし、一種の可笑しさすら感じてとれる。しかし今回用いられた「凡人」は、そういう文脈をまったく含まないものだった。

 人は誰しも思春期真っ盛りの頃に、
「オレはひょっとしたらスゴい能力の持ち主で、将来スゴいことを達成できて、このセカイをスゴい風に変えられる人間なのかもしれない」
と思うものだ。「スゴい能力の持ち主」の部分を「最強の剣豪」「100年に1人のギタリスト」「射撃名手のスパイ」「邪気に目覚めし漆黒の堕天使」「アインシュタイン以上の天才物理学者」などの単語に置き換えると分かりやすいだろうか。いずれにせよ「己を過大評価することで自信を持たせ、己自身の行動力にブーストをかける」という働きを有している。そしてその働きによって、思春期の少年少女は親離れを試み、社会を知ろうとし、独りでも生きていけるだけの土台を準備しようとする。いわば「厨二」とは子供から大人に変わろうとするための起爆剤だ。
 では果たして現実世界で大人になった「己の実態」はどうだろうか。ともに中学二年生ライフを満喫した彼等の中から、一体何人の「最強の剣豪」や「100年に1人のギタリスト」が輩出されただろうか。「邪気に目覚めし漆黒の堕天使」は一人でもいただろうか。どれくらいの理系生徒が「アインシュタイン以上の天才物理学者」になれただろうか(涙)。
 そう、なれない。なろうとしてもなれない。どうあがいたって、60億人いる人類の中で「(厨二基準での)スゴい」の座を獲得することは難しすぎるからだ。どう頑張っても上には上がいるし、否が応でも「昔の誰それはもっとすごかった」なる言葉には到底かなわない。
 しかしそう簡単に「スゴいの座」を諦めるわけにはいかない。そもそも「スゴい」というのはスゴいことなのだから、何かをスゴくやればいいだけの話なのだ。
 ここで人間の学習を、RPGなどのステ振りに置きなおして考えてみよう。すると上記の問題に対して、「あるステータスを極振りすれば、何らかの『スゴいの座』を獲得できるのではなかろうか」という発想が得られる。つまり「国語も算数も理科も社会もやるからスゴくなれないのだから、物理だけやっていれば最強の物理学者になれるに違いない」という戦略を取ったらどうなるか、ということを考えてみたくなるのが人の常だ。
 結論から言えば、「なれる可能性はある程度高くなるが、割に合わない困難が伴う」ということを薄々気づかざるをえなくなる。人が生きていくうえでは、最強の物理知識以外にも必要なものが多すぎるからだ。教育機関に所属するための試験にはじまり、就職、居住、納税、コミュニケーション、プレゼンテーション、恋愛、結婚、子育て……と、とにもかくにも必須スキルを要する些末な事象があまりにも多い。そしてそれらの些末な事象をステ振りゼロの知識や技術で解決しようとすると、非常に多くの困難が伴う。なんとなれば、「1億3000万人の日本人なら普通にこなせるはずだ、と国が決めていること」を満足にこなせないのだから。へたをすれば、公的機関によってせっかく極振りしたステータスが水泡に帰すかもしれない。いくらラスボスであるアインシュタインを倒せる天才物理学徒でも、ザコ敵である納税に倒されているようでは物理学者になれない。したがって「『誰でも普通にこなせる』と国が決めたショボい事を全うできるように、ステ振りを費やさねばならない」というフェイズを否が応でも経ていかなければならない。
 となると「スゴいけれど、つらいしリスキー」という軸足よりも、「ショボいけれど、わりとなんとかなる」という軸足のほうが、なんとなくうまくいけそうな気がしてくる。やはりリターンよりもリスクのほうが心象に大きく影響を及ぼすし、無難にやっていれば一発逆転のチャンスだって訪れるかもしれない。
 もちろん、所詮これらは軸足の問題でしかない。要は「ステータスをどう配分するか」という問題なのだから、「どっちつかず」も大いにアリだ。事実、現実世界にもある程度の緩衝作用があるので、「xからx+δxまでの範囲であれば、Xなるステータスにどのようなステ振りしてもかまわない」という寛容さは全てのステータスに付随している。なのでそれらをうまーいこと組み合わせると、「オレのAとBとCのステータスは、それぞれa+δa、b+δb、c+δcだ。だからオレは、ABC混合種目でトップに立てる」といった疑似的な「スゴさ」を会得できるようになる。現実世界でのステータスの種類の多さを考えると、「ABC混合種目」といった「オレが考えた種目」においては、かなりトップを狙いやすくなる。加えて「a+δa+1」みたいに「ちょっと無理しているけれど、認められてしまえば問題ないだろう」という戦略のもとで、あえて基準外のステ振りをしてみるのも面白い。そしてもしその結果「ABC混合種目」のトップに立ったキミが何らかの権威なり権力なりに認められれば、「ABC混合種目」を「α種目」と改名して別個のパラメータとして再設定することだってできる。
 このようにして、
「オレはショボいけれどスゴい」
という一見矛盾する両者を両立させられるようになる。両者は互いに「スゴいからこそ意味がある」「ショボいからこそ意味がある」という性質を持つがゆえに、どちらも捨てたくないモノだ。だからこそ「どちらも両立できるステ振り」を探ってゆくことで、より多くの困難を突破できるようになる。それは選択肢を増やすことにもつながるし、「今のオレなら、Aへのステ振りをaからa-1にしても問題ない」と気付ける機会も増えるだろう。
 ただ、あくまでも軸足は「ショボさ」にある。「オレは一生を、たかだか人並み程度の苦労で終わらせたい。だからショボい事柄にも労力を割かねばならない。そんなオレだけれど、工夫すればある程度スゴいことだってできるはずだ」という思想こそが出発点だったからだ。
 そう、オレはショボい凡人なのだ。
 ここで改めて振り返ってみると、
よう、凡人
という言葉は、まったくもって罵倒の台詞には見えない。むしろ、
「凡庸さを利用して、日常を問題無く乗り切れている人」
という褒め言葉にすら感じられる。加えて「凡人が60億人いるからこそ、ステ振りに失敗した人を『天才』として1人輩出できるほどの緩衝環境が整っている」と思えば、かなり誇らしい言葉だとも言えよう。

 凡人。
 年収数百万円で、定職に就いていて、気軽に会える友人がいて、家族と何の気なしに会話ができて、近所と人と挨拶ができて、時々失敗してめげることもあるけれどなんだかんだで気を持ち直して、たまには楽しいことがあって浮かれて調子を外して怒られて、思わず口にした言葉を後悔しつつ反省して、たまには微笑ましい光景に過去の自分を重ねて涙して、アスファルトに咲く花に勇気を感じて、首相の過激な政策を批判しつつも心のどこか「やむをえまい」と思って、凄惨な事件を感情的に非難して、「明けない夜は無い」というアタリマエの言葉を反芻すると何故だか力が湧いてきて、青空を見上げては「案外悪くない人生だなあ」と思ったりする人のこと。
 とてもとても素敵な人だ。

 「そんな凡人たちが出てくる漫画を描こう」というのもまた、ひとつのVOW漫画製作に対するモチベーションだ。そんな俺を、原稿の中のキャラクターたちがこう呼びかけているかのようだ、
「よう、凡人!」
と。

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