他人が信じられないセカイキあるいは世界樹ポエム

 「私は、他人が、信じられないのです」と言う世界樹ポエムの気持ちが少しだけ分かったときのお話。

 この世界樹ポエムの発言を目にしたときには、
「信じる・信じないというのは、『エビデンスの信頼性をどう見積もるか』という話でしかない。それでもなお『他人が信じられない』というのなら、セカイキはF=maも信じてないのだろうか」
と思ったものだった。しかしエビデンスの信頼性の評価する材料が無ければ、「そもそも信じない」という判断を下すことは少なからず妥当なものになるだろう……と後に感じられた。

 初対面の相手がどのような人なのか、と人に尋ねた際に、
「○○が好きな人」「○○をよく行う人」「○○に属している人」「○○だと信じている人」
という返答が為されると、おおむね安心できる。なぜなら、
「やっこさんは△△の中で、××好きとして有名な人だ」
という発言の中には、少なくとも、
「「「「××が好きだ」と△△に属する人が認識している」と感じている」……とこの人は俺に教えてくれた」
という複合的な情報が組み込まれてあるからだ。そのうえで俺自身が「やっこさんはどういう人か」を判断すればよい。むろん、「どういう人か」という推量に加えて、「こういう場合に対しこういう振る舞いをするならば、きっとこういう傾向にある人なのだろう」といった多くの可能性の吟味にも大きな意味があるだろう。いずれにしても、客観的な情報だけでも人物像を知るための土台は出来上がるし、そこから主観的な情報も少なからず汲み取れるものだ。そうしてゆく中で、人に対する多面的な理解が促される。
 一方で、
「いい人」
などの形容が為されると、なんだかつらい。なぜなら、実際にその初対面の相手と会って話をして、
「どうしてそんな浅はかなことを平気でやれるんだ……ッ!」
と感じてしまった際に、目の前の初対面の相手ではなく「その浅はかさをもってなお『いい人』と形容した人」に対する不信感が湧いてくるからだ。もちろん、長らく知人と呼べる以上の関係でありつづけた相手に対してなら、事情を察することもできる。しかし事情を察するだけの材料が無い相手に対しては、そこで湧き出でた不信感を打ち消すことができない。結果として、毒にも薬にもなっていないはずの初対面の相手への発言を根拠として、多くの場面で薬となってきた相手との関係は破壊されえるだろう。

 世界樹ポエムにとって、ニコ生で放送をしている女性らは憧れの存在だった。彼女らは世界樹ポエムの性の対象であり、同時に結婚を前提として当然の擬フィアンセたちだった。しかし当然のことながら、世界樹ポエムは彼女らのことを何も理解していなかった。どういう家庭で育ち、どういう価値観を持ち、なにをもって幸せとしているのか、まったく分かりようがなかった。なぜなら、分かるに至るための材料を、世界樹ポエムはあまりにも杜撰に扱いすぎてしまっていたからだ。
 ニコ生やツイッターには、彼女らと交流のある人たちが大勢いた。その中にはもちろん、世界樹ポエムの考えや行動を非難する人もいた。そしてその「世界樹ポエムの考えを否定する人」を彼女らが「いい人」と形容した際に、世界樹ポエムはたやすく彼女らとの関係を破壊してしまった。擬フィアンセとの関係は、他人への「いい人」ひとつで終わってしまえるものなのだ。
 擬フィアンセのような「WEB上だけの交流相手」が必ずしも低価値だというわけではない。むしろWEB上での付き合いしか無い相手だからこそ、理解しえる側面も大いにあるものだ。加えて今となっては「WEB上だけの交流相手」は、不自然なものではない。なので当然のことながら、そういう相手が「奇妙な考えの信奉者」を「いい人」と形容することも少なくはない。
 結局のところ、
「そこで発せられた『いい人』なる発言は、何かの破壊を正当化するエビデンスとして信頼できるかどうか」
という点において、実社会とニコ生とはなにも変わらない。そしてその信頼性の見積もりを誤り続けれて関係性を破壊し続ければ、多くの人から嫌われて終わる。
 いくら世界樹ポエム自身が、
人間関係は、嫌われてから、始まるんだよ
と言おうとも、最終的に世界樹ポエムは、
人間関係は、嫌われたら、終わるんだよ。 そんなこと、分かっているんだよ
と己の意を認めた。関係の維持を正当化できるエビデンスですら幾度も破壊の正当化に使われてきたのだから、当然の結果だと言えよう。
 そうして人間関係の破壊が続けば、「いま築かれ始めつつあるこの関係も、どうせ嫌われて終わるにちがいない」という認識を得るに至る。そうなると、少なくとも世界樹ポエムにとっては、
「どうせ嫌われて傷つくくらいなら、最初から何も無かったほうがいい」
というノーコストノーリターン戦法が魅力的に見えることだろう。少なくとも、
「この人と仲良くなって、楽しい人生を送ろう」
という(普通にエビデンスの信頼性を見積もれる人にとってはローコストハイリターンな)戦法も、世界樹ポエムにとってはハイコストローリターンなものでしかない。となると世界樹ポエムが前者を採用することは、むしろ合理的であるといえる。

 人生楽があれば苦もあるものだ。
 人間はどちらかというと「楽が多い」よりも「苦が少ない」ほうを好む。楽が少しばかり足りなくても生きる上であまり困りはしないが、苦が多すぎると人間は死んでしまうからだ。なので人間が「苦を減らす戦略」を採用することは、とりたてて不自然なものではない。
 ここで注目すべきは、「苦が少ないことと幸せは、必ずしもイコールではない」という事実だ。多くの場面において、この事実は人間に尋常ならざるエネルギーを与えてきた。でなければ、スマホひとつで電話とメールとゲームとインターネットを使えるような現代社会は、生まれえなかったことだろう。


 世界樹ポエムは、人が信じられないのではない。
 自らの意志で、人を信じないのだ。
 それこそが彼の生きざまであり、彼の詠うポエムなのだろう。
 これからも世界樹ポエムには、擬フィアンセたちとの過去を鑑みて「私は、恋多き人だがね」という認識を維持し続けてほしい。

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