不思議の国の声、奮闘の後

 発刊されたVOWに漫画が載った。

 およそ40ページほどの漫画を、編集の人たちはうまいこと纏めてくれた。拡大しても読めないとか、ソコにソレがある意義がよく分からないとか、そういう些末な問題に目を向けるのはむしろ野暮というものだろう。いまはただ、編集の人たちには感謝せねばなるまい。

 同じくして、俺はそれ以上の感慨をとりたてて抱いていない、という認識を改めて抱いた。
 たしかに漫画そのものが出来上がったことは喜ばしいことだった。しかしその喜ばしさは、
「俺の描いた漫画が出来上がったぜ! いやー、いつ見てもランは可愛いなあー! やっぱりランはランだなあ! うんうん!」
という達成感に基づくものである。単純に「出来上がること」が「喜ばしいこと」とイコールなのだ。読者に読まれることで云々という認識は、「喜ばしいこと」の中にまったく織り込まれていない。実際に、VOW漫画を印刷して作ったオフセ本を前にしても、
「ああ、なんか本になったなあ」
くらいにしか感じなかったのだから、ましてやそれがWEB上で公になったからといって何が変わろうか。
 漫画から得られる喜びというものは、描き終えた段階で充分与えられていたのだと知った。

 VOWの中で、自己紹介を行う同期も減ってきた。今年度に限って言えば、その人数は一人(俺)だった。
 考えてみれば当然の話である。サークルの中で実力をつくうちに、サークルに頼らずとも己でパフォーマンスの場を設けることができる人は増えてゆく。あるいは社会に出てゆくなかで、サークルに関わる時間をやりくりできなくなる人も増えてゆく。そうした中で、俺だけが「サークルに頼ったうえでパフォーマンスを行う」という選択を行っているという事実は、さほど不自然でもない。サークルに依拠することで面白さを得ている漫画を描く以上、自明の理だといえよう。

 「与えられた枠線を取っ払って己を表現する」という手段を取れる後続がいればいい。しかしそういった後続がいようがいまいが、VOW漫画は来年で終わりにしよう。それが後濁さぬ去り方というものではなかろうか。
 実際に、
「枠線を取っ払った表現とは、ああいうふるまいのことを指す」
という妙な固定観念ができてしまうくらいなら、むしろ、
「今年は誰もはっちゃけないの? なら俺が何かやるか」
という場を設けたほうがよほど建設的だ。

 あくまで自己紹介の場でしかないVOWで、どれだけの芸を見せることができるか。そのためには、与えられて当然の枠の中から飛び出して、己ならではの表現を模索する必要がある。
 歌を歌うサークルだからといって、歌だけで勝負する必要はない。歌と○○と△△の合わせ技で勝負すれば、そこに新たな地平が拓かれる。
 その地平を見るためには、まずは枠から飛び出してみよう。

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Author:パクリコン
ピチロの世界の住人。

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