セカイキあるいは世界樹ポエムの頭の良さ評価論

 セカイキの言動を通して、「頭の良さ」というものについて感じたことを書き連ねた。










 少し前のこと。
 セカイキのニコニコ生放送を見にいくと、いつものようにセカイキはドラクエRTAに関する愚痴と不満をコメントに書いていた。「あれが気に入らない」だの「これを何とかしろ」だのとセカイキは文句をつける一方で、セカイキ自身がどうしたいのかについてはまったく語られていなかった。なので毎度のごとく、
「じゃあセカイキ自身がRTAの大会を開け。はい、おしまい」
とのコメントで枠が終わるのかと思った。
 そう思ったとき、リスナーの一人が「お前ら、饂飩と蕎麦どっちが好き?」とコメントをした。これはよい話題だ、と思った俺は、
「どんな蕎麦も、ぶっかけ饂飩には敵わない。ぶっかけ饂飩はおつゆで伸びること気にする必要が無く、ダイレクトに麺のコシをダシとともに味わうことができる」
とコメントし、リスナー同士での饂飩談義に混ざった。もちろんリスナーの中には、
「関東と関西とで、うどんに違いなんてあるの?」
と言い出す者もいれば、かような疑問が呈されるたびに、
「関東のだしは醤油だが、讃岐ではいりこでだしを取る。瀬戸内海があるからこそできる芸当だ」
と説明を加える者もいた。やがて饂飩談義はまさに百花繚乱の様を呈し、
「ざるうどんって、讃岐では主流の食べ方だったのか!」
「麺のコシひとつでこんなに好みが分かれるだなんて……!」
「うどんにおでんか! こんど試してみよう!」
「讃岐にある○○の店の肉うどんは別格だった。あの肉うどんは讃岐で一番だ」
と空前の饂飩ブームが局地的に発生することとあいなった。
 饂飩の話題に皆が楽しんでいた頃、セカイキはというと、
私のような、頭がいい人ほど、嫌われるからねえ。 しかたがないねえ
などと言い出し、
△△という木を、植えると、猫が集まってくる。 猫が好きな人は、庭に△△を植えると、いいねえ
とコメントを続けていた。ときおり誰かが、
「庭と木の維持費が出せる人なら、猫くらい飼えるだろ」
「糞尿問題はどうするんだよ。近所からすりゃいい迷惑だ」
「猫が△△に集まるっていう情報のソースは何なんだよ?」
とかまってあげていたが、セカイキはそれらを完全に無視して、
私は、ほんとうに、頭がいいねえ
とコメントを打っては悦に浸っていた。
 頭がいいと自負しているのなら、饂飩談義における「関東と関西の違い」「丸亀製麺の評価」「讃岐饂飩の特徴」「稲庭饂飩との共存」などにカッコいいコメントをすればいいのに……と感じはした。少なくとも、
ウドンの違いなんて、どうでもいいがねえ。 ウドンなんかに必死になってるお前らキモいw プッw
というセカイキのコメントは、間違いなく「頭がいい」とはかけ離れたものだった。

 そこでふと、「じゃあセカイキは、何をもって“頭がいい”と言っているのか」を考えてみた。単純にその性質を列挙してみると、
・他人の出した話題には言及せず、相手を貶す
・相手からの質問に答えない
・理由を言わない
・前提を言わない
・結果を言わない
などが分かる。とどのつまりは、
・よその土俵で勝負できない
という表現で簡潔にまとめられる。
 「よその土俵で勝負できない」とは、平たく言うと「他人との合意のもとで作られたルールを守れず、勝負ができない」ということだ。「ルールを守れないから、サッカーで勝負できない」「ルールを守れないから、RTAで勝負できない」などの具体的な事例を考えてみると分かりやすいだろう。「ルールを守れないから、労働できない」という表現もまた、セカイキには適用できるだろう。

 では逆に、「他人との合意のもとで作られたルールを守って勝負をする」ことにはどのような意義があるのか。何の目的で、人はルールを守って勝負をするのか。
 大きく分けると、「自己鍛錬」と「公平性」と「技術発展」のためだ。

 「自己鍛錬」とは、簡潔に言えば「己の知識・技術を、あらゆる批判に耐えうるものにする」ということである。たとえば、
「物理の法則を発見した。仲間内の物理学者からの批判に耐えることができた。これでよし」
で終わるのではなく、
「その法則を他に物理学者にも主張し、ほんとうに批判に耐えうるものなのかどうかを確かめる」
という行為のことをさす。ほかにも「他楽団と合同で演奏をおこなう」「遠征してサッカーの大会に出る」「大勢でRTA大会を開く」などの行為もまた、例として挙げられるだろう。そしてそれらの行為には共通して、
    「どこの誰が相手であろうと通用する」
イコール「誰が相手でも勝てる」
イコール「世界で一番スゴい」
という認識が伴っている。「スゴい」を目指すならば、当然避けては通れない道だろう。

 ふたつめの「公平性」とは、「互いに同じ評価基準でものごとを競うべし」という枠組みの設け方の獲得にある。もし、
「あいつらはRTAでインチキをしてもお咎め無しなのに、何故だか俺がRTAでインチキをすると怒られる」
という枠組みを設けてしまえば、誰もRTAをやらなくなるだろう。RTA自体も意味をなさないものになってしまうだろうし、必然的に「競技としてのRTA」はなくなってしまう。そうならないように、あらゆる枠組みにおいて「公平性」は強く求められる。
 むろん「公平性」を追求しようにも、所詮は抽象的な概念にすぎない。しかし「公平性のある枠組み」には、少なからず共通した骨組みがある。したがって「公平性のある枠組み」に触れてその骨子を理解することは、「公平性」という抽象的な基準の理解を促してくれる。

 さいごの「技術発展」は、前述の二つを踏まえるとおのずと見えてくる。
「『こいつは皆が認めるスゴいヤツだ』という人物がいる。加えて、ここでは誰もが公平に勝負できる。だったら俺はそいつと勝負し、そいつを超えてみせよう」
と後続に思わせるためのロマンだ。「一人でも多くの相手と他流試合をする」ためにも、あるいは「今の俺達ではできない技」を託すためにも、後続は非常に重要な存在である。誰もが幸せになるには、是が非でも後続を獲得する必要があるのだ。

 鍛錬は人に宿り、ロマンは心に宿り、公平性は枠組みに宿る。
 まさに、人・心・場である。その三つをそろえておけば、大きく道を誤ることはそう多くないだろう。

 そういう意味において、「ルールを守って勝負する」ことは、自他ともに幸せにする行為だといえる。
 多少つらいこともあるかもしれないが、社会という場で労働という勝負をし、恋愛という勝負もし、あるいはRTAという勝負を行いつづけていれば、おのずと「普遍的にスゴい」存在へと近づくことができる。
 「普遍的にスゴい」と書くといまいちピンとこないが、要は――「独りよがりにならない」ということである。



 セカイキがよその土俵で勝負しないことには、あの独りよがりは決して治りようがないだろう。

 さっそく停滞しきってしまった世界樹ポエムのサイトの更新を待ってるぞ。

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